昭和五十六年四月六日 朝の御理解
御神訓 「障子一重がままならぬ人の身ぞ」
障子一重がままならぬ人の身である。お道の信心の第一番にここん所がよく分からなければ、次の御教えが分かりません。分かりませんというよりも、次の御教えによって力を受け、徳を受けることが出来ません。まずはここの所、人間は言うなら我無力の自覚と申しましょうかね。
障子一重がままならぬ人の身である。いいやこれは私が自分で出来ると。これだけは人に頼らんでん出来る。そういうことはないのです。本当に神様のおかげを頂かなければ出来ることではないのです。
いつも申しますように、なら、このおへぎ一つがこうやって私が持っておるというところには信心はない。神様のおかげで持たせて頂いているんだと。なら、私が例えば中風なら中風になってみなさい。そのおへぎをお前持ってみろと言われたっちゃ、このおへぎ一つが持てんのが人間なんです。だから持たせて頂いているんです。 障子一重がままならぬ人の身。ここん所がもうお道の信心を本気で分かろうとさして頂く者のまあ立脚点です。言うならば我力、私が私が、私が出来るというのはどこまでも我力で、本当は神様のおかげを頂かなければ出来ない。それは障子一重がままならぬ人の身だからであります。
そして段々信心を頂かしてもろうて、力を受け、徳を受けさせてもらって、言うならば障子一重がままならぬ人の身である私達が、天地を自由にするという程しのおかげが頂けて行くのが、お道の信心であり、その究極そこを目指すのです。天地が私のために自由になって下さる。障子一重がままならぬ人の身であるという自覚がまず様々なことを通して、真から分からなければいけません。
そして段々信心の稽古さして頂いている中に、徳を受け、力を受けて、それこそ天地が自由になる。そういう働きが頂け、そういう働きを起こすことの出来れるのも、人間です。生きとし生けるもの人間だけではありません。けれども出来る。これが出来るのは人間だけなんです。
いわゆる人間本来の性根というのは、いわゆる神様の氏子であるという、言うならば我神の子の自覚が、または万物の霊長である成程万物の霊長であるなあと分からしてもらえ
れるおかげ。それが何時の間にか、いわゆる我情我欲のためにあいまいなものになったり、異質なもの、人間の面をしているだけでね。本当に鬼畜にも劣るといったような。
昨日でしたかね、どっかこの近所ですよ。自分の子供をお母さんが殺して埋めとったという事件があったでしょう。恐ろしい話ですよね。これは形の上でのことですけども、心で殺すことがございます。そういう言うならば変わり果てて行く、その人間の心というものは、もう言うなら悪にも善にも限りがない。そこに言うなら信心の目覚めというものがある。
そして言うなら、神様に頂いておった本当の神の性根というものを、こうあるのですから、それを磨き出して行くということ。それを信心が頂けれるのである。分かるのであり、お徳を受けるのであるというふうにまあ言うわけ。
昨日は壮年会でございましたから、まあ皆さんの色々な話を聞かせてもらいました。丁度十一時頃まで。中で、久富繁雄さんが最後に発表していられました。
合楽で言われる成り行きを大切にする、尊ぶということ。尊ぶは出来なくても、大切にとは思えなくても、起きてくるその問題が自分に都合の良いことなら、誰でも成り行きを有難いで受けるのだけれども、自分に都合の悪いことはなかなか合掌して受けられぬ。だから、自分の都合の良いことだけを合掌して受けるのだったら、それは成り行きを大切にするのにならない。自分には損になることでも、痛い思いをするようなことであっても、恥ずかしい思いをすることであっても、ここに起きた問題そのものを合掌して受ける。
それは段々信心の稽古をさせて頂いている中に、この世にはもう神愛のみしかないということが分かってくる。神様が氏子可愛い、氏子助けずにはおかんという、そういう働きだけしかないんだと分かってくる時に、痛いことだって、損になることだって、やっぱり成り行きを尊んで、有難うございます。神愛有難しとして受けて行けれるのである。
だから私共が成り行きを大切にさせて頂いておるけれども、なら黙って治めると言ったようなことでも、ここに一言言いたいなあと思うようなことであっても、それを成り行きとして黙って受けて行く。いわゆる土(どろ)の心である。
そして、はあ言わんでおってよかったとまあ思うんです、お互いがね。時間が経って行くと、あああんなこと言わんでおって良かったとこう、言わんでおって良かったと自分が思うだけじゃいけないということを、繁雄さんが昨日話しておられます。
はあ黙って治めて良かった。黙って治めるという信心はそこに必ず実りがなからなければいけない。自分だけが言うなら黙って治めて良かったではなくて、その相手の人も、相手の事柄もそれがおかげに展開して行く。花だけではいかん実が稔らにゃいけんという話をされましたが。
それ聞かせて頂きながら、成程そうだなあと思いますね。黙って押さえて堪えとった。そりばってん時間が経ってみると、堪えておって良かったというだけなら自分の助かり。しかし黙って治める、神様有難うございますで合掌して受けて行ったら、自分も言わんでおって良かったけれども、なら相手もそれがおかげになっておる。相手の事柄もやはりお
かげの方へ展開していっておるということになってはじめて、黙って治めるんだと。成程これを実際日々実験実証して行きよらなければ、この所は分からん所だなあと私は改めて思うた。
私は昨日の御祈念、四時の御祈念に入る前でしたけれども、神様からお知らせに頂いたことがね、『命を持った地蔵さんはいない』ということを頂いた。お地蔵様はもう雨ざらし陽ざらしだというのです。「傘を持った地蔵さんがない」ち言う。皆さんもそうでしょう。傘を持った地蔵さんなんて見たことはない。
こりゃあ昔だったけれども、あの繁雄さんのことを、あの地蔵の徳と言うふうにねえ、仏様の中でもまあ言うならば位の低い菩薩とか観音とかいろんな位がありますね。その一番低いところのまあ言うならば仏格である、神格である。
なら地蔵の徳というのはどういうことかと言うと、まあここで傘ということを安心と言われますね。此方の道は傘一本で開ける道だと。此方の道は安心一つで開けて行く道なんだ。その安心ということを、例えば仏教で言う安心立命と言ったような険しい厳しいものではない。勿論これをよく煎じつめて行くと、あの安心立命というのは一つの諦感である。諦めのようなものである。そんな弱々しいものではない。どこまでも安心だ。
どういう問題があっても、神様へ向かわせて頂いている中に、ふと自分の心の中に、自分の心配やら、その悩みやら解けてしまう心が安心なんだ。心配で心配でたまらないことがある。神様へお参りさせて頂いて、ご理解を頂きよったら、心がすきっとして、安心になって、却ってお礼が言いたいような心が起こってきた。それが安心なんだ。金光教で言う安心はそれなんだ。
だからその安心という傘までは行かなくても、雨ざらし陽ざらしであっても、いわゆる地蔵とは地の蔵と書いてある。言うならここでは大地の信心。土の信心。黙って受けて受けて受けぬく心が地蔵の徳だと言われています。地蔵の徳が身に付いてくるんです。いわゆる黙って自分がその心の蔵に納めて行くわけなんです。
そこに、言うなら地蔵の徳ともなってくるおかげが頂けるけれども、それはお互いが、昨日も、その成り行きを大事にして行くとか、尊んで行くということが難しいと言う話からでしたけれども。それは難しいけれども、一遍にそれが分かるということじゃない。けれども、自分の都合の良いことだけでも、成り行きを大事にしながら、いよいよ難しいことはまあ出来ないに致しましても、そこに実験実証さして頂いている中に、もう一切の事柄が。
昨日、ある教会の先生から手紙が来た。もうそれこそ合楽のことを、もう口に出して言われないように悪口雑言言われる合楽の話を聞いた。ところが、私は合楽理念の実験実証さして頂いている中に、合楽の先生とぴたっと交流する何物かをこの頃は感じる。誰が何と言うて悪口を言うておっても、私はそれには加担しない。私はかく合楽を信ずるというような手紙が来ました。
昨日は、そういうようなお話ばかり聞きました。ある所でもまあ合楽の言うなら評判が
大変悪いという、そのことを聞かしてもらった。そういう時に、どうしてそげな本なこつも分からんな、何でそげなこつば言いよるじゃろうか。まあいうふうには一つも思いませんですね。
神様が言うならば「合楽の信心を中に入って広める」とこう仰せられるのであるから、ははあこんなにして神様が中に入って広めておって下さるんだなあと思うから、その悪口を聞いてから有難いなあとしか思わんのです。これが本当の成り行きを尊ぶことです。「私のことそげな悪口を言いよったちのどこん奴がどうしてそげなこつば私のこつば言うたじゃろうか」と赤面弁慶になって、むきになるというのじゃなくて、むしろ日々願わせて頂いとる。
これは皆さんたちもそうでしょうが。どうぞおかげを頂くようにと言うてお願いをなさっておるから、そのおかげに一歩でも近付かせて頂くための働きだと分かったら、いわゆる神愛と分かったら、その悪口に対してでも有難うございますが言えれるんだと。そういう稽古をさせて頂く。
だから成り行きを尊ぶとか、大切にするとか言うことでも、昨日の繁雄さんの話じゃないけれども、なかなか以て、まあ辛抱したけれども、ただ辛抱しただけで実りにもならなかった。それが段々実りになって、はあ黙って治めるとはこんなにも有難い尊いとして、それを受けて行くことが出来る。
昨日の朝のご理解を研修の時まとめさせて頂くと、ひとりでにものが出来るようなおかげとあったですね。それには常平生の信心が肝要であると言う御理解でした。ところが常平生の信心が、言うなら何十年続けている人も沢山あるけれども、ひとりでにものが出来るようなおかげを頂いている人は滅多、滅多ち言うが、まずないでしょうが。してみると、ただ参りよります拝みよりますが何十年続いたって駄目だとこういうことです。常日頃に良い肥料を施す。 昨日の朝の御理解の中に、雨が降らんために野菜やら植物が枯れかかってきた。その時にお湿りがある。また水をかけるとその植物が生き生きとしてくる。お水をかけただけでも生き生きしてくる。そういうおかげは皆が頂いているわけだよね。日々おかげを受けているのはそうなんですよ。
けれども肥料とはなっていない。それが肥料になるような信心をさしてもらう。言わばその土地をいよいよ肥やしておかねば、豊かに肥やしておかなければ、ひとりでのものが出来るといったようなおかげではない。
今日私が言う、障子一重がままならぬ人の身だけれども、段々信心修行をさせて頂いておると、言うなら天地が自由になって下さる程しの、言わば願い以上のおかげが頂けれるようにもなるんだと。ならそれを、昨日の御理解から言うと、ひとりでにものが出来るようになるというおかげなんです。
ひとりでにものが出来るようなおかげを頂くことのために、なら肥料をしとかんならん。常平生の普段の信心が大事だということは、だた参りよります拝みよりますじゃあなくて、その信心の教えというものを、まあ言うならば繁雄さんのお話じゃないけれども、成
り行きをいよいよ尊ばせて頂いてもらい、ここでは辛抱が出来ん堪忍が出来んのだけれども、それを受けて行く。いや合掌して受けて行くといったような信心。
普通から言うならば、落第をした。あげんお願いしとったつにどうして落第したじゃろうかじゃなくて、落第したことに対してお礼が言えれるような信心。そういう信心に神様は佐保天のおかげ、天が保証して下さる。合楽教会がバックだ。神様が保証して下さるといったようなおかげにも力にもなるんだという、昨日の御理解でしたでしょうがね。
私はそういう信心が身に付いて行くということが、そういう信心が肥料になるんだと思うです。ただ常日頃の信心が肝心じゃと簡単に言うてあるから分かりませんでした私も。ただ長年辛抱強うお参りしよりゃあ段々ひとりでのものが出来てくるようになるというふうに頂いとりましたけれども。
なら、金光教の信心を、信者を見回してみてです。はああそここそひとりでにものが出来るようなおかげ頂いちあるなあという所は実際にはないんです。まあ言うならば合楽ぐらいなもんです。
ならその合楽がどういう信心したかというと、人から「馬鹿」と言われても「阿呆」と言われても、それを黙って受けぬいて、いやむしろそれを有難しと受けて行くような信心が続けられて行く中に、今日の合楽が生まれたんです。
昨日の御理解をもう一遍だから復習してみてね、ははあ肥やしになる信心とは、日頃頂いとる信心をそん時に表して行くということ。本当に神様を垣間見ることが出来るような信心。そこんにきになってくると、ちょっと常識を超えた信心にならなければなりません。どこまでも常識的な信心からは生まれてはまいりません。
もう数十年も前の話ですけれども、久留米の佐田さん、大変忙しいお店のことをなさっておられます。本店がその当時倒産されました。もうそれこそ十何代と続いたいわゆる老舗であり、もう天下の佐田屋と言われる店がつぶれました。佐田さんもその分家ですから、いろんな保証に判を捺しておられた。もういよいよギリギリという。だからこんなわけで騒動しとる時ですから、御本部参拝が出来ないと言われた。
丁度今日から御本部参拝ですけれども、けれども私が「参りなさい」ち申しました。「そげなこつ放からかして参りなさい。御本部参拝をさして頂きなさい」それで御本部参拝された。その後に分かったことが、佐田さんが捺しておられた判が間違うとった。だからその佐田さんの所の保証は役に立たないことになった。それで御本部参拝しとるち言うので、金光の町の旅館に全部に、佐田屋の方から電話が掛かったそうです。
ところがそん時には、すでに私共はもう帰途についておった。しかもその時の御本部参拝に限って、山口の長田先生の所に私が行かんならん用件があって、菊栄会の連中ばっかりでしたから、当時の菊栄会の方達は全部山口の方へ行っとったもんですから、もうとにかく判を捺し直してもらわんならんばってん出来なかった。そしてもう帰られた時にはしまえとった。
だから私がそん時にね、「そんな忙しかなら、御本部参拝はこの次しなさい」ち言うと
ったら、もう佐田さんの今の家屋敷はなかったですねえ。神様のそういう非常識なようにあるけれども、そういう信心をいよいよ身に付けて行くというようなその信心が、言うならば肥やしになるのです。
そういう信心が、私は右と思うけれども親先生が左とおっしゃるからと、言うなら泣く泣くでもそれを言うならふんまえて行くところにです。なら神様もそこに垣間見ることが出来るでしょうが。いや神様の働きちゃ恐れ入ったなあ。親先生の一言は成程神様の一言だということが分かるでしょう。そういう信心を私は、昨日は肥料に肥やしになる。ひとりでにものが出来るようなおかげを頂くということはそういうことだと言うふうにまあ聞いて頂いたんですけれどもね。
今日の御理解は、障子一重がままならぬ人の身であるということをまず分からなきゃいかんですね。成程説明を聞きゃあ、これ一つでも自分で持っておるばってん、持たせて頂いとるのだということは分かるでしょうが。私が中風になったら、これ一つ持てんのじゃから。してみると、今までは持たせて頂いとったなあと分かるけども、分かっただけじゃ出来ん。
それを実感して。本当に自分というものには力がないんだ。我無力であるんだ。障子一重がままならぬ人の身である。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだから、少々神様が無理をおっしゃっても、その無理と思うことにでもついて行く生き方をしておる時に、本当の神様の心が分かる。本当の神様の思いが分かる。神愛が分かる。一切が神愛と分かる時にです。なら成り行きを尊ぶと。いよいよ尊び、有難く頂いて行くことが出来るのです。合楽ではそういう稽古しなければ合楽通いの値打ちがなか。
そして、障子一重がままならん人の身でありながら、なら天地が自由になって下さり、必要なものが必要に応じて頂けるような、人間の幸せのすべての条件が足ろうて来るようなおかげが頂けて行くのが信心であり、合楽理念はそこの所を、誰でもその気になって行ずれば出来るような教えが内容となっているのが合楽理念であると言うふうに思います。
今日は、障子一重がままならぬ人の身という自覚が皆さんの上に出来ておるか、そこから合楽の信心は始まるのです。いやこれだけは私が出来ます。こりゃあ私がせにゃ他ん者はしてがありませんからといったような間は、本当の神様を、生きた神様をそこに垣間見ることが出来ない。神様を生に生き生きとこれに感じるようなおかげを頂いて、障子一重がままならぬ人の身である無力の人間が、天地が自由になる程しのお徳もおかげも受けることが出来るようになるのです。
金光様の御信心をさせて頂くならね、そういう本当の所を目指して頂いて、おかげを頂くために先ず我無力、障子一重がままならぬ人の身、成程そうだということが先ずその根底としてね、信心の、本当の信心の根底として分からしてもらう。いよいよ成り行きを尊ばせてもらう。大切にさせてもらう。それが本当に尊べる、有難く頂ける信心を身に付けて行きたいですね。
どうぞ。